捕虜を作らない軍隊「武装親衛隊」の激闘

武装親衛隊とは、ドイツ陸軍、空軍、海軍に次ぐ第4の軍隊と言うイメージが強い。その成り立ちはヒトラーの政権掌握直後まで遡る事が出来る。

その起源はヒトラーが1933年3月17日にヨーゼフ・ディートリヒに作らせた特別衛兵隊組織である。当初の任務は首相官邸警護であったが、その後1933年9月のニュルンベルクナチ党大会でアドルフヒトラー個人に対する忠誠を行い、アドルフヒトラー親衛旗の名を受けた。これが後の第一SS装甲師団アドルフヒトラーである。

その他に親衛隊には、強制収容所監視の任務があった。彼等の中から選ばれた者は後に「第三SS装甲師団トーテンコプーフ」の兵士となり、その師団長には強制収容所の監視部隊長であったテオドール・アイケがなった。

第二次大戦が勃発すると、武装親衛隊は連隊、ないし大隊構成のまま陸軍五個軍諸師団に配属されて実戦を経験した。Waffen―SS(武装親衛隊)を指す言葉が登場したのはこの頃で、ポーランド戦後には三個師団からなる武装親衛隊が組織された。

だが、当時の陸軍は兵役適齢者を武装親衛隊へ編入することを認めなかった。その為に武装親衛隊の兵士を占領地に求め、志願兵を募った。ノルウェー、デンマーク占領に伴うゲルマン人中心の部隊がその中で成立していった。ゲルマンSS「ノルトランド」「ヴェストランド」連隊がその後、スイス人やデンマーク人、バルト人や民族ドイツ人らを集めて組織されたのが「第五SS装甲師団ヴィーキング師団」である。

武装親衛隊は当初、装備も陸軍と比較して旧式な重火器を装備していたのだが、1943年の装備改変の際に、優先的に最新兵器が受領された。それもヒトラーが彼等の活躍に期待するところが大きい。

特に「ヒトラーの火消し役」と呼ばれた数個のエリート部隊が武装親衛隊の伝説を作る要因となった。彼等は高速機械化された部隊で、常に戦線の最前線に投入された。その兵士の消耗率は凄まじい物で、第二SS装甲師団ダス・ライヒは独ソ戦初期の半年間で67.8%の高い消耗率を出した。

武装親衛隊の損失を省みない戦闘は、1個のエリート師団が戦闘に投入されるだけで、戦線を安定するほどの威力があったという。その為に、ソ連軍は武装親衛隊を非常に恐れたのである。武装親衛隊が捕虜を作らない軍隊だと言われたのは、その余りに壮絶な彼等の戦闘に負うところが大きい。

1942年1月のデミヤンスク戦でのトーテンコプーフ師団の活躍、1943年2月のハリコフ戦におけるアドルフ・ヒトラー師団の活躍、1944年1月、チェルカースィ包囲戦でのヴィーキング師団の活躍などは、今でもドイツ人の語り草になっているという。

だが、独ソ戦当初に武装親衛隊の後を追った保安警察の特別行動隊は、共産党幹部やユダヤ人をパルチザンと称して、約半年間で50万人近い人々を殺害したのである。

1945年のベルリン戦で最後まで戦ったのは国防軍兵士ではなく、皮肉にもフランスやノルト出身の帰る国を失った武装親衛隊兵士達だった。

(藤原真)