自転車で勝てた戦争があった─サイクルアーミーと新軍事モビリティ

日本兵は戦場で“餓死”する必要はなかった!
自転車で勝てた戦争があった─サイクルアーミーと新軍事モビリティ

兵頭二十八著

四六判276ページ(並木書房)/5月2日発売

先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37パーセントを占めるといわれる《広義の餓死者》。だが、1950年代のベトナム兵たちが主用したような「押して歩く自転車」を、兵糧輸送と患者後送の手段として役立てる着想があったなら、餓死者数はゼロにおさえられた可能性がある。ではなぜ帝国陸軍のエリート参謀たちにはそれができなかったのか? これまで誰も答えてくれなかった疑問を、本書はひとつひとつ解き明かす。古今の自転車技術を探り、《追試実験》によって確かめられた真実……。日本兵は〝餓死〟する必要はなかった!

1953~54年のベトミン対フランス軍、その後のベトコン対米軍の戦いで、「押して歩く」輸送用改造自転車が、制空権のないジャングル内の物資輸送に大活躍しました。1~2人の「押し手」が数kmの短い区間を担当し、次々とリレー式に自転車を前送して行くことによって、絶え間のない長距離補給を実現させたのです。
後年「大失敗作戦」の典型とされているガダルカナル作戦やポートモレスビー攻略作戦、そしてインパール作戦も、ベトミン式の自転車輸送を活用していたら、最終勝利はできないまでも、「犠牲の少ないヒット&ラン」作戦ができたはずです。
1944年のインパール作戦は4ヵ月間続きました。日本軍はこの作戦に9万人を動員し、餓死または置き去りされた傷病兵の陣没者が3万人くらい。純粋な戦死者は、それとは別に3万人ほどだったそうです。
現地で牛を集めて軍需品を運ばせようとした牟田口中将の思いつきは、作戦開始から1週間にして見込みが外れ、兵器も弾薬も糧食も、すべて歩兵が肩で担いで運ぶしかなくなりました。歩兵たちは、持参の糧食が尽きたあとは、全員、飢餓状態となって、マラリヤや感染症に抵抗する体力も失い、それが「歩行不能患者」を急増させたのです。
ペダルもギヤもチェーンもサドルも外した改造自転車に、コメ80kgと武器弾薬をくくりつけて、ひたすらジャングル内を押して歩くことは可能です(p.237の実験参照)。80kgのコメがあれば、その兵隊は4ヵ月間、餓死することはありません。
補給がほとんどなかった日本兵ですら、当初は互角に戦っていました。補給が十分であったなら、インパールを占領するという目的は、達成された可能性があります。インパールを占領できずに総退却となった場合でも、3万人の餓死者(置き去り)は発生しません。まったく同じことは、ガダルカナルと、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(オーエンスタンレー山脈越え作戦)にもあてはまります。
残念ながら、戦前の帝国陸軍のエリート参謀たちは、「押して歩く」自転車の有用性を、ベトナム人のように理解できなかったのです。じつはアフリカの「コンゴ民主共和国」には「チュクードゥー(Chukudu)」という、全木製の物資運搬用スクーターがあり、400~800kgも物資を積んで、押して歩いています(p.72参照)。
この「押して歩く」自転車は、現代の日本でも必ず重宝するはずです。将来、南海トラフ大地震が起きて、西日本じゅうが負傷者だらけになったとき、活躍できるのは、ガソリンも電気も必要としない、こうした「押して歩く」自転車/スクーターです。

兵頭 二十八(ひょうどう にそはち)
1960年長野市生まれ。陸上自衛隊北部方面隊、月刊『戦車マガジン』編集部などを経て、作家・フリーライターに。既著に『米中「AI」大戦』(並木書房)、『有坂銃』(光人社FN文庫)など多数。現在は函館市に住む。

 Amazonでチェック!

目 次
第1章 インパール作戦──「置き去り」にしたかどうかで決まった「餓死者数」
第2章 日露戦争は「自転車にとってのタイミング」が悪かった
第3章 なぜ「マレー進攻作戦」だけが「銀輪」活用の成功例となってしまったのか?
第4章 「東部ニューギニア」と「ガダルカナル」の悪戦を、自転車は変えられたか?
第5章 ベトナム人だけが大成功できた理由は?
第6章 自転車は「エネルギーと食糧の地政学」をこれからも左右する
[コラム]
水牛は役に立たなかったのか?
実験リポート ゴム無し車輪のプッシュバイクで本当に使い物になったか?
自転車歩兵部隊を乗馬歩兵部隊と比べた長所と短所は何か?