ドイツ戦闘機隊 vs 連合国4発爆撃機

B-17

1940年7月に開始された、バトル・オブ・ブリテンで敗北したドイツ軍は、防空体性の強化に努めた。前年1939年9月3日「ハンプテン」18機と「ウェリントン」9機が北海上空の艦隊探索に来たが、それが大戦後初のドイツ本土領空侵入であった。

またイギリス軍は夜間爆撃を好んだ。昼間爆撃は目視で簡単に相手の位置を掴める事が出来たからである。巨大な爆撃機は格好の餌食になった。そのためにイギリスは夜間攻撃を利用したのである。

ドイツ軍の防空体制としてはサーチライトと対空砲が主力で、1942年には照射能力の高い直径210センチの40型が導入された。また、ドイツ軍では1940年からレーダーを導入した。迎撃レーダーのウルツブルグレーダーは警戒レーダーのフライアと連携して「ヒンメルベット」と呼ばれる防空網を確立した。

ドイツ軍の防空兵器である高射砲とサーチライトが唯一の実線兵器という点では他の国と同様であった。また高射砲の「Flak36」8.8センチ高射砲は傑作火砲であった。対空陣地はブラックバッテリーと呼ばれ、大戦初期には10名からなる兵員から構成されていた。それは指揮官1名、砲主1名、照準手1名、「高位置1名、低位置1名」、装填手1名、信管セッター1名、砲弾運搬手からなっていた。

迎撃には当初、単発機のBf109が使用されたが、1人のパイロットが操縦、航法、目標捜索の3役をこなすのは困難であった。そのためにドイツではBf110双発戦闘機やJu88爆撃機を夜間戦闘機として使用した。

1940年6月26日から10月13日までの109日にイギリス空軍爆撃機隊が出撃した昼間爆撃は102回、8,804機で180機を損失。総数10,689機が出撃し6,010トンの爆撃を投下した。被った被害は246機であった。イギリスは次第に新型の4発エンジン搭載のハンドレベージ・ハリファックス、ランカスターなどを投入した。

また、レーダーの性能も当初はドイツが優位に立っていたが、次第にイギリス側がドイツ軍を凌駕していった。

1941年11月から42年2月までの期間、イギリスはほとんど成果を挙げることが出来なかった。軍の調査によると41年6月と7月に爆撃した際、4機に対し1機しか目標の8キロ以内に届いていなかったのである。しかも1941年7月7日から11月までに空軍は夜間爆撃で414機、昼間爆撃で1112機の爆撃機を消耗している。その結果ピンポイント爆撃から、無差別爆撃に切り替えられた。

1942年にアメリカが参戦すると、アメリカ軍はイギリスの爆撃側と対立した。アメリカ軍は昼間爆撃を望んだが、イギリスは夜間爆撃を望んだのである。

当時アメリカには「空の要塞」といわれた重武装なB-17 4発爆撃機と精密なノルデン爆撃照準器をもってすれば、昼間爆撃でも大丈夫だろうとアメリカ軍は考えたのである。

1942年5月30日夜、1,000機の爆撃機がドイツのケルンを襲った。内訳は「ウェリントン」602機、「スターリング」88機「ハリファックス」131機、「ホイットレー」28機、「ランカスター」73機「マンチェスター」46機、「ハンプデン」79機の総計10,047機であった。

投下された爆弾の内3分の2は傷痍弾だった。死者は469名に及び18,432戸が消失、40,586戸が損壊した。8月17日にはアメリカ軍のB17が12機で爆撃をして全機が帰還した。一方のドイツ軍は390機のほとんどがBf110夜間戦闘機であった。

1943年2月は連合国が「1日24時間連続爆撃」と呼ぶ昼夜を問わない戦略爆撃が開始された。アメリカ軍爆撃機隊はドイツの工業地帯に向けられてきた。その際16機が対空砲火とドイツ軍戦闘機によって撃墜された。また、376機のB17は60機が撃墜された。

その頃は護衛戦闘機が爆撃機を目的地近くまで護衛するのが常識であった。航続距離の短い戦闘機はその途中で帰還するが、そこを狙ってドイツ軍戦闘機が急襲するのである。

連合国は当初P38やP47を使用していたが、戦闘機が帰還した後のBf109、Fw190といったドイツ軍戦闘機の攻撃は熾烈を極めた。

やがて連合国にとって救世主が登場した。それがP51D戦闘機で、1944年から登場し、当時のドイツ軍全ての戦闘機よりも優れた性能を示した。爆撃機の最後まで護衛が可能になると、連合国爆撃機の被害は減少し、逆にドイツ軍は新たな策を練らねばならなくなった。

ドイツ軍戦闘機の20ミリでは爆撃機には全く歯が立たず、その口径は30ミリに大型化され、21センチロケット弾を搭載した機種も登場した。

 1943年になると、「シュトリム・グリッペ」(突撃飛行隊)が編成された。Fw190戦闘機には防弾装甲を施し、敵爆撃機100メートルまで接近して攻撃するという、英雄的な行為が必要であった。これを提唱したのはヴァルター・ダール少佐であり、悪化しつつある防空戦を打開するために考え出された。シュトリム・グリッペは43年7月から実戦配備され、7日には初陣を飾った。

 特にB17は前方に12.7ミリ機銃4丁、動力銃塔に2丁を装備していた。基本的にドイツ軍戦闘機は前方と後方から同時に攻撃を仕掛ける方法を基本としていた。ただし、爆撃機は密集して飛行している為に、その攻撃は中々難しかった。

更に1945年には圧倒的な連合軍爆撃機に対して、敵爆撃機に体当たりをして撃墜させるという事を目的に「エルベの決死隊」と呼ばれる特別攻撃隊が編成された。これは

日本の「震天制空隊」にも通じるものがある。

1945年、ようやくドイツは新型機を投入することが出来た。これがMe262ジェット戦闘機で、当時の連合国のどの戦闘機よりも高速であった。1944年に開発していたものをヒトラーが爆撃機に使用しようと、戦闘機として使用するのは許可しなかったのである。Me262ジェット戦闘機は終戦までの間に、550機余りの敵爆撃機を撃墜した。

(藤原真)

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