バトル・オブ・ブリテンの戦い

バトルオブブリテン

1940年6月にフランスを破ったドイツは、今度はイギリス侵略を企てた。まずは空軍でイギリス空軍を破り、上陸して戦闘を行い勝利するという計画だった。

1940年の時点では、当時ドイツはヨーロッパ最強の空軍力を誇っていた。だが、ドイツ空軍は基本的に陸戦直協を基本としていた為に、直接の都市爆撃任務に慣れていなかった。

1940年7月におけるドイツ空軍の総戦力は爆撃機1,131機、急降下爆撃機316機、単発戦闘機809機を主とした計2,600機であった。ゲーリング元帥の計画では主攻撃目標はイギリス空軍,及び地上、湾岸施設であった。その総攻撃日は「鷲の日」と呼ばれた。

8月10日に最初の小競り合いが行われた。初日は750機の両軍を交えた空戦となり、ドイツ側13機、イギリス側6機の損害を出した。

イギリス空軍のスピットファイア、ハリケーン両戦闘機はBf109戦闘機にとっては手ごわい相手だった。更にJu87急降下爆撃機はその低速度も合って、ほとんど戦力とはならなかった。更に双発のBf110戦闘機は自分すら守れぬ代物であった。戦闘機に護衛をされる戦闘機との烙印を押されたのだ。

ヒトラーの決めた「鷲の日」は延期の末8月13日に開始された。ドイツ空軍は1,500機を出撃させたが、34機を失った。それに対してイギリス側は3機を失ったに過ぎなかった。その後も攻撃は続けられたが、イギリス軍が開発したレーダー網はドイツ軍機の侵入をたやすく補足していた。

当初は4日で勝利するはずだったドイツ軍は、イギリス軍の反撃で結果を出すことが出来なかった。戦闘機乗り達は少ない航続距離の戦闘機で1日に5回も出撃させられ、更にイギリス上空には僅か10分程度しか活動できなかった。上層部は敵戦闘機への壊滅が手ぬるいからだと言うことで、年配の各航空司令官は更迭させられ、エースと称された有能な若い士官を司令官に抜擢した。アドルフ・ガーランド、ヴェルナー・メルダースなど後の国民的英雄指揮官がこのときに誕生した。

組織も戦闘機をイギリスに近いフランス北部のパ・ド・カレー地区に集中配置をした。

8月24日にはドイツ軍の大軍が海峡を越えてイギリス本土に東部と南部に集中した。ハリケーン、スピットファイアも応戦し、血みどろな戦いが始まった。8月30日の戦いでは150機の爆撃機、1,300機のBf109、Bf110が出動、対するイギリスは述べ978機のハリケーン、スピットファイアを出撃させた。この戦闘でイギリス機は39機が撃墜された。イギリス側の発表では8月中に失われたハリケーン、スピットファイア390機、空襲により190機が失われたと言う。

それに対するドイツは損失231機、損傷80機と戦闘機に限って言えば優勢になったのである。ところが8月24日、攻撃禁止地区であるロンドンが誤爆された。これにイギリス側は報復としてベルリンを爆撃したのだ。

これに激怒したヒトラーは報復として、目標をロンドンに変更したのである。あのまま敵戦闘機を壊滅すればドイツの勝利はあったかもしれなかったのだ。

9月15日イギリス戦闘機隊は取るに足らぬと判断したドイツ軍はロンドンへ昼間爆撃に向かった。すると、ロンドン上空には300機近いハリケーン、スピットファイアが待ち構えていた。この日は作戦中に2番目に多い60機が失われた。これにはゲーリングも酷く落胆した。9月27日と30日にもドイツは昼間爆撃を実行したが、それぞれ55機、48機を失い計画は失敗した。

イギリスの9月15日での勝利はバトル・オブ・ブリテンでの勝利を決定付ける形となった。ドイツ軍は戦術的に夜間爆撃のみに専念していったが、翌年には独ソ戦の準備もあるために、爆撃の規模も減って行き、イギリス上陸作戦は事実上失敗したのだった。

(藤原真)

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