自衛官が語る海外活動の記録─進化する国際貢献

『自衛官が語る海外活動の記録─進化する国際貢献』

「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱き任務を確実にこなした自衛官たちの証言!

桜林美佐監修/自衛隊家族会編
四六判220ページ 定価1600円+税

 

現在、トランプ大統領の「自国船舶は自国で守るべき」との発言を受け、自衛隊の新たな中東海域への派遣が計画されています。いまや海外任務は災害派遣と並んで平時における自衛隊の主任務になりつつあります。
派遣先で隊員たちは何に悩み、苦労し、どう試練を乗り越え、任務を遂行してきたのか。ここには1991年のペルシャ湾の機雷掃海活動から各PKO活動やイラク復興支援活動、国際緊急援助隊、そして今も継続されている海賊対処活動まで約30年間の自衛隊による海外活動の実際の様子が25人の自衛官の証言によって語られています。
一読すれば、自衛官たちが日本人特有の「やさしさ」や「思いやり」を遺憾なく発揮し、現地の人々の立場に立ってきめ細かく活動し、その結果、派遣先だけでなく国際社会からも高い評価を受けている理由がよく分かります。そして、これまで1人の犠牲者を出すことなく、任務を遂行してきた自衛隊の「練度の高さ」「厳正な規律」を実感できます。

中東のシーレーン(海上交通路)の安全確保をめぐり新たな自衛隊の派遣が検討されている。自衛隊の海外派遣は1991年のペルシャ湾での機雷掃海活動に始まり、PKO活動やイラク復興支援活動、国際緊急援助隊など形を変えながら実施され、海賊対処活動はいまも継続されている。時には「海外派遣反対」の心ないデモを避けるように隠れて出国したこともあった。それでも隊員たちは常に「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱き、厳正な規律を維持して今日まで1人の犠牲者も出さなかった。本書は海外活動に従事した自衛官の体験をまとめた貴重な記録である!

「海外活動」は、今や平時における自衛隊の主任務の一つになりつつあります。
自衛隊員、いや日本人特有の「やさしさ」や「思いやり」を遺憾なく発揮し、現地の人々の目線に立ってきめ細かく活動した結果、派遣先国のみならず国際社会から、例外なく、高い評価を得る結果となり、今日に至っております。「練度の高さ」「厳正な規律」そして「きめの細かさ」は、組織の「精強さ」を表す尺度でもあります。当然、それらは自らの安全確保にも直結し、今日まで「海外活動」において1人の犠牲者を出さなかった要因にもなっているのです。〈本文より〉

監修者のことば(一部)・桜林美佐

自衛隊史上初めての海外派遣は海上自衛隊によるペルシャ湾での機雷掃海活動でした。
初の海外派遣が掃海部隊であったことは、歴史的な因縁も感じさせられます。
というのは、日本は戦後、周辺の海にばらまかれた機雷を除去しなければならず、これを旧海軍の軍人であった人々が行ないましたが、朝鮮戦争の際にも朝鮮半島沿岸で海上保安庁の特別掃海隊が掃海作業を行なっていたからです。
アメリカはこれらの日本の働きを高く評価していましたから、湾岸戦争で資金援助以外になすすべがなく顰蹙を買っていた日本に、機雷掃海作業を行なうことによる名誉回復を進言したのです。
しかし、朝鮮に出動した特別掃海隊では殉職者も出ており、この作業には危険が不可避であることは確かでした(詳しくは拙著『海をひらく』をご参照ください)。
第14掃海隊司令(当時)森田良行さんの回想では、そうした日本の知られざる過去の記憶からも、ひとりの犠牲もなく帰って来られるのか、苦悶する心境が記されています。
「ペルシャ湾への派遣は、1991年4月16日に『ペルシャ湾における機雷等の除去の準備に関する長官指示』により出港準備作業を開始し、4月26日には出国という、準備期間がわずかに10日間ほどときわめて短かった」(40ページ参照)
とあるように、それだけの大事業であったにもかかわらず、政治的な事情により自衛隊にとっても隊員やその家族にとっても準備期間はとても短いものだったのです。
この掃海部隊の活動に端を発し、自衛隊はPKO(平和維持活動)にも出て行くようになります。陸上自衛隊によるカンボジア、モザンビーク、ルワンダと続いたPKOでは厳しい環境の中で文句も言わずに活動する隊員たちの姿が窺えます。
ルワンダ難民救援隊長(当時)の神本光伸さんの手記によれば、活動を始めてまもなくすると、花壇を整備する人を見かけ、聞けば市長が命じたのだといいます。市長にそうした気持ちを起こさせたのは、規則正しく勤勉に働く隊員たちだったということで、自衛隊の一挙手一投足の影響力の大きさを物語っています。
「日本人としての当然の立ち居振る舞いが、ゴマ市民を勇気づけたのだ。これは嬉しい驚きだった」(62ページ参照)とあるように、決して命令で行なうものではない、ごく自然な生活態度の大切さがわかります。
次なる派遣はゴラン高原でした。この「国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)」は、シリア情勢が悪化した2013年まで実に17年間続けられていました。
第1次ゴラン高原派遣輸送隊長(当時)佐藤正久(現参議院議員)さんは、花嫁の嫁入り道具の輸送支援から除雪作業まで多種多様な任務をこなしていた日本隊は、約40人の陣容ながら「日本隊は200人くらいの規模だと思っていた」(68ページ参照)と、他国の派遣部隊から驚かれたと書いています。
また、第3次ゴラン高原派遣輸送隊長(当時)の本松敬史(現西部方面総監)さんのエピソードは隊員さんたちの表情が目に浮かぶようです。
予定の時間に遅れたり、約束を守ってくれないことがしばしばある現地の人々に、厳しい教育を受けてきた自衛官たちとしては、「耐えられない態度であり、腹が立つのを通り越して、情けなくなることもしばしばであった」ということですが、そのうちにシリアの人だけでなく、他国の派遣部隊も「明日できることはもう今日やらない」といった傾向があり「次第にこれに慣れてしまった」といいます。そして、そのうちに「愛すべき対象に思えてきた」(74ページ参照)という、行った人にしかわからない摩訶不思議な心情が吐露されています。
この、最も長く続けられたゴラン高原での活動から日本は撤収しましたが、「PKOの学校」の異名があるように、こここでの活動は陸上自衛隊の経験値を大いに積み上げることになりました。
多くの先輩から後輩へ、その経験は引き継がれ、最後に日本部隊の看板を下ろした隊員たちには熱い思いがこみ上げたと聞きます。
続いて赴いた東ティモールでは、第3次東ティモール派遣施設群長(当時)を務めた田邉揮司良さんが述べられているように、現在各所で行なわれているキャパシティ・ビルディングの先駆的な仕事をしています。
「道路の維持補修においては、現地住民を雇い、技術指導をしながら、隊員たちは彼らとともに食事をし、汗を流して工事を行なった」(84ページ参照)
とあるように、現地の人々への技術教育が、自衛隊ならではの働きをますます発揮することになりました。(中略)

本書に収録されている手記は、すべてこれまでの国際活動のリアルな体験談です。現場の実態は一つひとつを読んでいただくのがベストですが、その前にひとつ読者の皆さまと認識の確認をしておきたいと思います。それは、私たち日本人の「現在地」についてです。
ペルシャ湾の掃海部隊派遣に始まり、PKOや国際緊急援助隊など、海外での活動の「進化」をざっと振り返りましたが、これはあくまでも自衛隊の活動年表です。
敗戦から立ち上がり、アメリカ軍の必要に応じるかたちで警察予備隊が設けられ、その後、自衛隊と名を変えてもなお「憲法違反」との誹りを受け続けてきた歴史からすれば、海外での活動やそこにおいて押しも押されもせぬ「軍」と認められることは「進化」にほかなりませんが、これは日本国内における視点にすぎません。
各地で実施されている国際活動とは、慈善事業でも奉仕活動でもなく、世界を揺るがしている紛争やテロとの間接的な戦いです。これを「国際貢献」だと思ってきたのは日本人だけかもしれません。
世界が協力して築こうとしている平和に、日本がどのように関与していくつもりなのか、諸外国はそのようにわが国を眺めているかもしれないのに、私たちはいつまでも国内目線で、甘い現状認識の中にいるといえます。この、自衛隊の「現在地」と今後の進路については、「あとがき」でさらに触れたいと思います。
まずはこれまでの海外活動の主役となった皆さんの筆による体験記をお読み下さい。

 

目次

監修者のことば 桜林美佐(防衛問題研究家) 1
自衛隊の海外活動派遣実績(2019年9月現在)26
自衛隊の海外活動派遣先(2019年9月現在)30
序 平時の自衛隊の主任務になった「海外活動」32
海上自衛隊掃海部隊ペルシャ湾派遣
総行程1万4千海里、自衛隊初の海外活動 第14掃海隊司令(当時)森田良行 37
陸上自衛隊施設部隊カンボジアPKO派遣
試行錯誤しながら無事故で任務達成 第1次カンボジア派遣施設大隊長(当時)渡邊隆 47
モザンビーク国際平和協力業務
隊員の知恵とコミュニケーション力で業務遂行 モザンビーク派遣輸送調整中隊長(当時)中野成典 53
ルワンダ難民救援国際平和協力業務
好評だった「日本流」の救援活動 ルワンダ難民救援隊長(当時)神本光伸 59
ゴラン高原PKO(その1)
離散家族の絆もつないでいたUNDOF 第1次ゴラン高原派遣輸送隊長(当時)佐藤正久 65
ゴラン高原PKO(その2)
わが心の故郷「ゴラン高原」第3次ゴラン高原派遣輸送隊長(当時)本松敬史 71
ゴラン高原PKO(その3)
司令部要員として悪戦苦闘した1年間 第1次UNDOF司令部派遣要員(当時)軽部真和 77
東ティモールPKO
多機能型PKOとして国造りを支援 第3次東ティモール派遣施設群長(当時)田邉揮司良 82
イラク人道復興支援(その1)
現地の人々の目線でものを見る 第1次イラク復興業務支援隊長(当時)佐藤正久 89
イラク人道復興支援(その2)
自衛隊の活動に寄せられた歓迎と感謝 第1次イラク復興支援群長(当時)番匠幸一郎 96
イラク人道復興支援(その3)
徹底した訓練で培った自信と謙虚さを持って 第4次イラク復興支援群長(当時)福田築 101
イラク人道復興支援(その4)
航空自衛隊輸送航空隊、初の脅威下の運航 第1期イラク復興支援派遣輸送航空隊司令(当時)新田明之 107
イラク人道復興支援(その5)
復興支援を通じて「イラクに残してきたもの」第3次イラク復興業務支援隊長(当時)岩村公史 112
イラク人道復興支援(その6)
イラク人による「自立的な復興」への橋渡し 第5次イラク復興業務支援隊長(当時)小瀬幹雄 118
イラク人道復興支援(その7)
イラク・サマーワから全員無事帰還 第10次イラク復興支援群長(当時)山中敏弘 123
イラク人道復興支援(その8)
戸惑いながらも派遣輸送航空隊の撤収 イラク復興支援派遣撤収業務隊司令(当時)寒河江勇美 128
南スーダン国際平和協力業務
中央即応連隊の信条をもって任務遂行 南スーダン第1次派遣施設隊隊長(当時)坂間輝男 134
トルコ共和国地震国際緊急援助活動
海自初の自衛艦による仮設住宅輸送 トルコ共和国派遣海上輸送部隊指揮官(当時)小森谷義男 141
インドネシア国際緊急援助活動
陸自と救援物資の輸送を完璧にこなす インドネシア国際緊急援助海上派遣部隊指揮官(当時)佐々木孝宣 147
パキスタン大地震国際緊急援助活動
救援物資とともに真心も届ける パキスタン・イスラム共和国国際緊急航空援助隊長(当時)堀井克哉 152
ハイチ国際平和協力業務(その1)
他国のモデルになった日本隊 ハイチ派遣国際救援隊長(当時)山本雅治 157
ハイチ国際平和協力業務(その2)
ハイチの未来のために日本隊が残したもの ハイチ派遣国際救援隊(第7次要員)隊長(当時)菅野隆 163
ハイチ国際平和協力業務(その3)
派米訓練から緊急空輸の実任務へ転用 航空自衛隊ハイチ国際緊急援助空輸隊長(当時)武部誠 173
海賊対処活動(その1)
不安とストレスの中、初の海賊対処任務 第1次派遣海賊対処行動水上部隊指揮官(当時)五島浩司 178
海賊対処活動(その2)
海賊行為を抑止できた目に見える成果 第1次派遣海賊対処行動航空隊指揮官(当時)福島博 186
インド洋における補給支援活動
情報収集部隊としての初任務を達成 海上自衛隊第6護衛隊司令(当時)宮﨑行隆 192

執筆者略歴(掲載順)199
「あとがき」にかえて
積極的平和主義と新時代の自衛隊の役割 桜林美佐 205

 

桜林美佐(さくらばやし・みさ)
防衛問題研究家。日本大学芸術学部放送学科卒。TV番組制作などを経て防衛・安全保障問題を研究・執筆。2013年防衛研究所特別課程修了。防衛省「防衛生産・技術基盤研究会」、内閣府「災害時多目的船に関する検討会」委員、防衛省「防衛問題を語る懇談会」メンバー等歴任。安全保障懇話会理事。国家基本問題研究所客員研究員。『誰も語らなかった防衛産業』『日本に自衛隊がいてよかった』『自衛官が語る海外活動の記録(監修)』など著書多数。

公益社団法人 自衛隊家族会
「自衛隊員の心の支えになりたい」との親心から自然発生的に結成された「全国自衛隊父兄会」が1976年「社団法人」、2012年に「公益社団法人」として認可され、2016年に「公益社団法人自衛隊家族会」と名称変更。現在、約7万5千人の会員が国民の防衛意識の高揚、自衛隊員の激励、家族支援などの活動を全国各地で活発に実施中。防衛情報紙『おやばと』を毎月発行、総合募集情報誌『ディフェンス ワールド』を年1回発行。