自衛官が語る災害派遣の記録─被災者に寄り添う支援

自衛官が語る災害派遣の記録─被災者に寄り添う支援

桜林美佐監修/自衛隊家族会編
四六判280ページ 定価1600円+税
並木書房

昭和26年のルース台風で初の災害派遣をして以来、自衛隊はこれまでに4万件を超える災害派遣を実施してきた。激甚災害における人命救助、被災者・復旧支援から緊急患者の空輸、不発弾処理、水難救助、医療・防疫に至るまで、その活動は広範多岐にわたる。「一人でも多くの命を救う」を合い言葉に、活動内容の変化に合わせて体制を見直し、対応力を高めている自衛隊。過去50年の主な災害派遣と、それに従事した指揮官・幕僚・隊員たち37人の証言をまとめた貴重な記録!

本書は、自衛隊員の家族によって構成される自衛隊家族会の機関紙『おやばと』に連載された「回想 自衛隊の災害派遣」をまとめたものです。ここには過去50年あまりに実施された主な災害派遣と、それに従事した指揮官・幕僚・隊員たち37人の証言が収められています。
昭和26年のルース台風で当時の警察予備隊が初の災害派遣をして以来、自衛隊はこれまでに4万件を超える災害派遣を実施してきました。離島での救急患者の輸送をはじめ、不発弾処理、行方不明者の捜索、医療や防疫まで、その活動は広範にわたります。
1995年の「阪神・淡路大震災」では当時の厚生省から被災者の入浴支援は「公衆衛生法に反する」と指摘されたり、「地下鉄サリン事件」では、自ら防毒マスクを外して安全を確認した化学防護隊長の証言など脚色も誇張もないリアルな事実がここには記録されています。
被災地でご遺体を搬送したら、警察から「検視前に動かすと公務執行妨害になる」と言われたり、瓦礫の除去も私有財産を勝手に処分することが許されるのかという問題もあります。
2016年の「熊本地震」災害派遣では、即応予備自衛官が招集され、整体師の資格をもつ隊員が避難所で被災者のケアをしたり、フォークリフト技能者が救援物資の仕分けで大活躍した話が紹介されています。
自衛隊の災害派遣というと、ヘリコプターなど機動力を活用した迅速な部隊の展開、組織力を発揮した人命救助、そして行方不明者の捜索などが中心に考えられていますが、実は救援活動の指揮能力の高さが、それを可能にしていることが本書を読むとよくわかります
一人でも多くの人に読んでもらいたく、ご紹介のほど、よろしくお願い申し上げます。

監修者のことば(桜林美佐)

手記を読み進めていくと、年次を追うにしたがい、世の中の自衛隊に対する感情がどのように変化してきているか、実感していただけると思います。
1995(平成7)年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」当時、中部方面総監部幕僚副長だった野中光男さんによれば、「神戸の街に戦闘服は似合わない」と言われたといいます。
その頃は地域ごとの特性はあるとはいえ、人々を助けるのは当然のことと、被災地に飛び出した隊員たちを待ち受けていたのは、震災の被害だけでなく、心ない冷たい言葉でもあったわけです。
一方で自治体側からの要請は次々にくる。市民からの膨大な要望を無碍に断れないため、それがそのまま自衛隊に回ってくるわけです。それで最善を尽くそうとすると、今度は当時の厚生省から風呂の設置は「公衆衛生法に反する」と横やりが入る。
今でこそ、被災地での自衛隊による給食や入浴支援、トイレの設置などが当たり前のようになっていますが、現在のようになるまでにはどんなに苦労してきたことか、と思います。
また、当時の中部方面総監・松島悠佐さんは、「防災訓練を含め市の行事に自衛隊は参加させないという神戸市の態度は、結構かたくなだった」と、実情を吐露しています。
震災前までは海上自衛隊の艦艇も神戸港への入港は許されず、音楽隊も神戸では演奏会も催したことがなかったといいます。それら反対派の共通するキーワードはやはり「自衛隊は憲法違反だ」というものだったことを考えると、この頃の空気を吸ったかどうかは、自衛隊関係者における「改憲」へのインセンティブに大きく影響しているのではないかと感じます。
松島さんの述懐で心打たれたのは、まさに「総力戦」であたった自衛隊のどのような部隊がいかなる支援を行なったのか、詳細に記されているところです。
私たちはひと括りに「自衛隊の災害派遣」と言っていますが、そこにはさまざまな仕事をしている隊員が存在していることまで、なかなかイメージしきれません。
とくに医療や輸送、通信、補給、調達、会計、あるいは警備など、欠くべからざる分野であるが、その働きぶりが表に出にくい人たちへの感謝の気持ちと温かい眼差しが文面から見てとれます。

阪神・淡路大震災と同じ年に「地下鉄サリン事件」も発生しました。当時、私は埼玉のテレビ局で情報番組に出ていましたが、都心の地下鉄駅に部隊が出動しているのを見て、自衛隊は何でもできるんだ!と思ったことを記憶しています。
しかし、自衛隊に化学科職種があるとはいえ、当時、第32普通科連隊長だった福山隆さんや陸上自衛隊化学学校の技術教官だった中村勝美さんの回想を読むと、まさに取るものも取りあえずの状態で、にわか編成された部隊だったことがわかります。
大宮駐屯地から駆けつけた中村さんは、築地駅で地下鉄の車内やホームでの除染作業を終えた時、駅員に非常に重い問いを投げかけられます。それは、「駅は明日から使用できるのか」というものです。
多くの犠牲者を出した惨劇の現場は、夜が明ければまた、昨日までと変わらない都心の日常生活に戻ることが求められている。誰がその決断をするのか、気づけばその場にいたあらゆる人が、中村さんの判断に委ねていたのです。そのため、中村さんはもう一度、無人の地下鉄ホームに戻り、自らの防護マスクを外し安全を確認するという、大胆な行動に出たのです。
かくして、翌朝からいつもの通勤ラッシュの光景が戻りました。中村さんはその後、上司から「蛮勇をふるうな」とたしなめられたことや、また、任務を終えて市ヶ谷駐屯地に戻ると多くの仲間が帰隊を待っていて出迎えてくれたと振り返っていますが、いずれも「自衛隊のいいところ」がわかるようなエピソードではないでしょうか

目 次

監修者のことば 桜林美佐(防衛問題研究家)
序  災害派遣は国民の信頼と期待の源

沖縄の緊急患者空輸任務40年
波濤を越えて 第15ヘリコプター隊第1飛行隊長(当時)川嶋和之

沖縄の不発弾処理隊創設42年の軌跡
いつの日か不発弾がなくなるまで 第101不発弾処理隊長(当時)渡邊克彦

「御巣鷹山日航機墜落事故」派遣
悲しみのバレーボール球 第12施設大隊本部第3係主任(当時)市川菊代

「阪神・淡路大震災」災害派遣(1)
自衛隊に対する印象が変わった 中部方面総監部幕僚副長(当時)野中光男

「阪神・淡路大震災」災害派遣(2)
派遣要請を待たずに呉を出港 呉地方総監(当時)加藤武彦

「阪神・淡路大震災」災害派遣(3)
災害派遣出動の蹉跌と教訓 中部方面総監(当時)松島悠佐

「地下鉄サリン事件」災害派遣(1)
待ったなしの除染作戦 第32普通科連隊長(当時)福山 隆

「地下鉄サリン事件」災害派遣(2)
命懸けの除染活動に従事して 化学学校技術教官(当時)中村勝美

「有珠山噴火」災害派遣
万全な態勢で「犠牲者ゼロ」を達成 北部方面総監部幕僚副長(当時)宗像久男

「東日本大震災」災害派遣(1)
自衛隊の組織力を遺憾なく発揮 東北方面総監部防衛部長(当時)冨井 稔

「東日本大震災」災害派遣(2)
郷土部隊としての矜持を堅持し活動 第6師団長(当時)久納雄二

「東日本大震災」災害派遣(3)
「Jヴィレッジへ前進し、現場の指揮を執れ!」福島原発対処現地調整所長(当時)田浦正人

「東日本大震災」災害派遣(4)
迅速に物資を被災地に送り込む 中部航空方面隊司令官(当時)渡邊至之

「東日本大震災」災害派遣(5)
東日本大震災に見た隊員の強さと優しさ  第4海災部隊指揮官・掃海隊群司令(当時)福本 出

「東日本大震災」災害派遣(6)
自衛隊頼みの初期対応 宮城県危機対策企画専門監(当時)小松宏行

「東日本大震災」災害派遣(7)
東日本大震災の医療支援活動 自衛隊仙台病院長(当時)森﨑善久

「東日本大震災」災害派遣(8)
胸を張って語れる活動を実施しよう 第9師団長(当時)林 一也

「東日本大震災」災害派遣(9)
師団長の果断な決断 第4師団第3部長(当時)橋爪良友

「東日本大震災」災害派遣(10)
被災・復旧そして完全復興へ 第4航空団基地業務群司令(当時)時藤和夫

「東日本大震災」災害派遣(11)
万全の備えで福島原発へ空中放水 第1輸送ヘリコプター群第104飛行隊長(当時)加藤憲司

「東日本大震災」災害派遣(12)
福島第一原発へ冷却水運搬 横須賀港務隊大型曳船船長(当時)厚ケ瀬義人

遭難ヨット「エオラス」号乗員の洋上救難
白く砕ける波濤を越えた緊迫の人命救助 第71航空隊飛行隊員(当時)中畑昌之

「伊豆大島土砂災害」派遣
二正面作戦の相乗効果 東部方面総監(当時)磯部晃一

「広島豪雨」災害派遣
行政にとって自衛隊は「最後の砦」第13旅団司令部幕僚長(当時)山本雅治

「御嶽山噴火」に伴う災害派遣
厳しい状況下での捜索救助任務 第13普通科連隊長(当時)後藤 孝

「関東・東北豪雨」災害派遣
関係機関と緊密な連携のもとに任務遂行 第4施設群長(当時)武隈康一

「熊本地震」災害派遣(1)
自衛隊と自衛官時代の教育に感謝 熊本県危機管理防災企画監 有浦 隆

「熊本地震」災害派遣(2)
災害派遣で自衛隊の果たす役割 第8師団長(当時)岸川公彦

「熊本地震」災害派遣(3)
プッシュ型からプル型支援へ 西部方面総監(当時)小川清史

「熊本地震」災害派遣(4)
過去の震災派遣で学んだ教訓を活かす 第4師団長(当時)赤松雅文

「熊本地震」災害派遣(5)
即応予備自衛官の活動を指揮して 第24普通科連隊長(当時)稲田裕一

「熊本地震」災害派遣(6)
24時間連続で病院へ給水 第5航空団基地業務群司令(当時)和田竜一

航空救難団の災害派遣
人命救助にすべてを捧げる 航空救難団松島救難隊救難員 熊坂弘樹

「西日本豪雨」災害派遣(1)
被災者に寄り添う支援 第13旅団長(当時)鈴木直栄

「西日本豪雨」災害派遣(2)
段階的に変化する自衛隊の役割 中部方面総監 岸川公彦

「西日本豪雨」災害派遣(3)
海自艦艇の機動力を活かして 呉地方総監(当時)池 太郎

「北海道胆振東部地震」災害派遣
師団全隊員を誇りに思う日々 第7師団長 前田忠男
執筆者略歴(掲載順)248

「あとがき」にかえて
なぜ自衛隊はがんばれるのか 桜林美佐

桜林美佐(さくらばやし・みさ)
防衛問題研究家。1970年生まれ。日本大学芸術学部放送学科卒。TV番組制作などを経て防衛・安全保障問題を研究・執筆。2013年防衛研究所特別課程修了。防衛省「防衛生産・技術基盤研究会」、内閣府「災害時多目的船に関する検討会」委員、防衛省「防衛問題を語る懇談会」メンバー等歴任。安全保障懇話会理事。国家基本問題研究所客員研究員。著書に『奇跡の船「宗谷」』『海をひらく-知られざる掃海部隊』『誰も語らなかった防衛産業』『自衛隊と防衛産業』(以上、並木書房)、『日本に自衛隊がいてよかった』(産経新聞出版)、『自衛隊の経済学』(イーストプレス)、『自衛官の心意気』(PHP研究所)、『自衛隊の実像~自衛官24万人の覚悟を問う』(テーミス)他

公益社団法人 自衛隊家族会
「自衛隊員の心の支えになりたい」との親心から自然発生的に結成された「全国自衛隊父兄会」が1976(昭和51)年「社団法人」、2012(平成24)年に「公益社団法人」として認可され、2016年に「公益社団法人自衛隊家族会」と名称変更。現在、約7万5千人の会員が国民の防衛意識の高揚、自衛隊員の激励、家族支援などの活動を全国各地で活発に実施中。防衛情報紙『おやばと』を毎月発行、総合募集情報誌『ディフェンス ワールド』を年1回発行。