第二次大戦を戦い抜いた「オットー・クム武装SS少将」

Otto_Kumm

オットー・クムは1909年10月1日にハンブルグで生まれた。彼は武装SS将校の中でもSS部隊の精神を徹底的に刻み込み、戦闘の模範を示した将校として有名である。

彼は1934年にSSゲルマニア連隊に参加し、38年には「SSデア・フューラー連隊」の第12中隊長になった。大戦初期の西部戦線では1940年5月13日から第3大隊長となり、東部戦線でも同大隊を率いて戦った。1941年7月には連隊長に昇進し、10月に親衛隊中佐に昇進した。11月29日にはドイツ十字章金章」を受章した。

オットー・クムは兵士の模範として戦い、1942年2月16日には騎士鉄十字章、

1943年4月6日に騎士鉄十字柏葉章を受章する。そして4月20日には親衛隊大佐に昇進した。

東部戦線中央戦区のルシャウの戦いでは、部隊は多数の戦死者を出しながらも前線を守り抜いたが、彼の行動は部下達の模範となったと言われている。

そして、SSダスライヒ師団の勝利は彼のおかげによると言われている。この功績から彼は1943年4月6日付けで「第221番目の柏葉騎士十字章」が彼に送られた。更に4月4月20日に親衛隊大佐に昇進した。その後、1943年から1944年までバルカン半島における第5SS山岳師団の参謀長を勤めた。「1944年1月30日には大佐となり「プリンツ・オブ・オイゲン」の司令官となる。

1944年11月9日には親衛隊少将昇進した。

チトー率いるパルチザンとは過酷な戦いが続いたというが、彼はここでも目覚しい活躍をした。特に親衛隊の兵士等はパルチザンを捕虜とせずに、動物同然に惨殺していた。こんれが、後にオットークムを戦争犯罪に囚われる一因となった。

1945年2月6日からは第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」の師団長となり、主に東部戦線で活躍した。やがてハンガリーまでソ連軍に押されるが、既にドイツ軍のエリート師団と言えども、兵器や兵士など、幾度の激戦で消耗しており、師団と言え、既に師団の体をなしていなかった。

ところがヒトラーは最後の賭けにでた。これが「ラインの守り作戦」で、実際奇襲でアルデンヌの森を抜けて、アメリカ軍を壊滅しようと言う作戦であった。これらの部隊はヨアヒム・パイパーSS大佐に指揮され、パイパー戦闘団と言われた。

ドイツ軍1944年末、装備する戦車はなけなしの戦車を寄せ集めた物で100両を超え、兵士も他の師団よりも5000名も多かった。戦車の主幹となるのはパンター戦車で、残りはⅣ号戦車が締めた。この戦には「第1SS装甲師団アドルフ・ヒトラー」を中心とした精鋭部隊であり、ドイツの将来を担う物であった。

12月16日に作戦は決行された。進撃は進み、驚いたアメリカ軍は撃破された。

しかし、昼間はヤーボによる爆撃もあり、戦車部隊は基本的に夜しか動けなかった。

なけなしの精鋭部隊も燃料切れなどで、僅か9日間で作戦は失敗した。

オットー・クムはこの作戦には参加していなかったが、それでも彼はドイツ本土で超人的に戦った。また、彼は思慮深く部下からの信頼も厚かった。

1945年3月17日には第138番目の「剣付騎士鉄十字章」した。

1945年5月8日にアメリカ軍の捕虜となり、パルチザンへ対する残虐行為の責任の為、ユーゴスラビアに引き渡される予定であったが、その前に彼は脱走し、戦後は印刷会社で働きながら、旧武装親衛隊相互扶助協会「HIAG」を創設した。

彼は2004年3月23日に没している。

(藤原真)

photo: wikipedia