世界最初のアサルトライフル「MP44」

MP44

大戦も後期になると、ドイツ軍の兵員の不足もあり、それに伴い攻撃力も低下した。他国が自動小銃を既に歩兵に装備させていたのに対し、ドイツ軍は未だに1発ずつ装填するモーゼルk98小銃が主力であった。

ドイツ軍部はその不足分を補う為に、新たなるコンセプトを持つ銃を開発した。これがMP44である。この銃の特徴は弾薬を小型化して銃本体を軽量化し、小銃と機関銃の機能を併せ持つ性能を持ち、ドイツ軍では「突撃銃」の名称が与えられた。

銃の開発に当たっては、ハーネル社とモーゼル社の競作をさせた結果、ハーネル社の銃の方が優秀だと判断され、MKb(42)と名称が付けられた。この銃は1942年から43年にかけて11,833挺が生産され、主に東部戦線で使用された。

1943年にはMKb(42)は大きな改良を受けた。まず、バレルが銃口に向かって切削加工された。そして、フロントサイトの基部も大きく変更された。リアサイトを取り付けるレールはプレスになり、ZF41照準器が取り付けられた。そして名称もMP43と名づけられた。

ところがヒトラーはこの銃の開発には反対であった。弾丸の種類が増えて配給が混乱することを恐れたのである。ヒトラーには既存のSMGの改良版であると偽って開発は続けられた。

また1943年、ヒトラーは改めてMP43の開発を中止する命令を出したが、1943年3月には評価目的の為に製造は続けられた。

MP43の高性能はヒトラーの耳にも入った。MP43一挺が98k5挺分の火力分に相当することが証明されたのである。MP43は1944年も製造が続けられた。名称もMP44とされた。

また、高級将校からもっとMP44を求める声が上がり、ヒトラーは宣伝でも勝利することを込めて、その名称もSturmgewehr44(突撃銃)の名称に改められた。

実際MP44はMP40の弾丸の届かない距離での市街戦でも、簡単に敵を掃射することが出来た。更に、軽機関銃の代わりに援護射撃することが可能であった。

また、MP44には塹壕などで頭を出さないで弾丸が90度曲がって発射できるクラムラウフと呼ばれる筒状の装置も開発された。更に、MP44は国民義勇兵に装備させる為に、銃を簡易化させたStg45を開発させたが、完成したのはドイツの敗戦の後であった。

MP44は425,000挺が生産された。全長940ミリ、銃身長419ミリで重量は5.22キログラム、装弾数は30発で7.92ミリの弾丸を毎分500発以上発射可能であった。

戦後も世界各国はMP44の影響を色濃く受け継いだ。特にソ連の場合は拘束されたヒューゴ・シュマイザーとミハイル・カラシニコフがMP44と同じ使用弾を使用するAK47を開発したが、MP44の雰囲気を色濃く残している為に、外見的にも似た印象を受ける。その点、他の西側諸国は各自銃の開発に固執した。アメリカは戦後もM1カービンを使用し続けた。M16カービンが登場するのは1961年であった。

文字通りMP44は後のアサルトライフルに大きな影響を与えたのである。

(藤原真)

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