東部戦線で活躍したスペイン青師団

Cementerio_de_la_Almudena_04jul07_09 スペインは1931年に王国から共和国へと代わった。その際国内では軍部が台頭し、更に地主や教会などの旧勢力が入り乱れて国内は混乱した。

1936年に政府は議会を解散して総選挙を実施し、2月には左派勢力による人民戦線政府が誕生したが、その4ヵ月後には右派によるクーデターが発生し、国内は内戦状況となった。

これに目を付けたのがヒトラーである。ヒトラーは土地的にも重要な位置にあるスペインを枢軸側に引き込むために、反乱軍の首領であるフランコ将軍を援護した。ドイツ、イタリアから派遣された義勇軍のおかげもあり、スペイン内戦はフランコ将軍が勝利した。ヒトラーは当然、スペインが枢軸側に参加すると思っていたのだが、フランコ将軍は中立を維持した。

1940年に西部戦線で勝利したヒトラーは10月にフランコ将軍と会見した。その際ヒトラーはスペインを通過してジブラルタルを攻略する案を出したが、フランコはこれを拒絶した。更にフランコはヒトラーの提案を受け入れる見返りにフランス領モロッコの割譲を要求したが、ヒトラーは激怒した。

スペイン義勇軍の編成は、ドイツがソ連に侵攻した後から開始された。志願者は18,000名を数えたが、彼等はスペイン内戦の経験者であり、彼等は強制ではなく、自らの意思で志願したと言われている。

彼等の多くは職業軍人であり、スペイン軍は8名に1名の将校がおり、将校の割合が高かった。義勇軍は4個歩兵連隊を基幹とし、師団長にはアグスチン・グランデス将軍が任命された。義勇兵達はこうしてドイツへ送られた訳であるが、彼等はドイツ国民の熱狂的歓迎を受けた。

彼等は第250師団の名称が与えられたが、一般的には青師団と呼ばれることが多かった。これはスペインファラン党のシャツの色に由来する。青師団の初陣は8月20に出た。しかし、彼等への指示は右往左往していた。これは一部にドイツ軍がスペイン義勇軍の戦力を過小評価していたからだとも言われている。

結果として青師団はレニングラード包囲戦に参加することとなった。10月11日の夜に青師団はウォルフ川からイリメニ湖西岸の幅50キロの前線が割り当てられた。

戦闘はすぐに始まった。12日ソ連軍は青師団の前哨拠点に攻撃を加えてきた。そこには第269連隊第大隊が守っていたが、彼等はソ連軍を見事に撃退した。青師団は50名の敵を倒し、80名近い捕虜を得た。

またドイツ軍のレニングラード包囲も完全な物ではなかった。そこで北方軍団は他の師団と共に青師団の第263と第269の2個連隊が派遣された。

ソ連軍はそこに攻撃を加えてきた。強力な砲撃の後にソ連軍歩兵が乱入してきて、各地で激しい白兵戦が始まったが、青師団はこれを押し返した。ドイツ軍は青師団に対して3箇所の村の攻略を命じていた。そこでドイツ軍は第269連隊の第1大隊が派遣された。

11月12日ソ連軍の攻撃が第1大隊に対して加えられた。前線はたちまちソ連軍に突破され、青師団は雪の中に孤立した。青師団は後退を開始したがポサドの村を守っていた部隊は完全に包囲されてしまった。気温は零下40度まで下がった。寒さの為に兵士等は一睡も出来なかった。

ソ連軍は投降を呼びかけたが、青師団の士気は高かった。かれらはこれを拒絶した。その後青師団に後退命令が出た。青師団の戦死者120名、負傷440名、行方不明20名を数えた。12月10日彼等は後方まで下がり再編成に入った。

1942年冬、攻勢に出たソ連軍はドイツ第290師団を撃破した。その際、青師団に緊急命令が出された。1月10日フスワトに孤立したドイツ軍救出の為、スペイン・スキー中隊の206名が向かったが、凍結したイリメリ湖を渡った。たちまち120名の凍傷者をだしたが、ソ連軍と交戦、撃退に成功した。彼等はその後、34名まで減っていたが彼等には鉄十字章が授与された。更にドイツ軍と合流して最終的に無傷でスペインに帰還できた青師団兵士は12人のみだった。

その後、青師団はオィルホフ包囲陣に参加し、その高い戦闘力はドイツ軍からも評価された。オィルホフ包囲陣の戦いでドイツ軍は勝利した。また、師団長のグランデス将軍はベルリンに召還され、ヒトラーから直接柏葉騎士十字章を授章され、そのままスペインに帰国した。グランデス将軍の後任にはエステバン・インファンテス将軍が就任した。

1943年になると、レニングラードのドイツ軍はソ連軍の大攻勢を受けることとなる。青師団も北方のムガへ派遣が命令されたが、その正面にはソ連軍の戦車2個師団を含む5個師団が配備されていた。戦闘は3時間の準備砲撃の後に開始され、歩兵と戦車の大軍が青師団に襲い掛かってきた。師団崩壊の危機に対し、インファンテス将軍は部隊をイショーラ川まで後退させたが、青師団は前線を死守した。ソ連軍は後退したが、青師団は3,600名もの死傷者を出していた。

1943年はスターリングラード戦での敗北に始まり、クルスクにおける作戦の失敗などドイツ軍にとって不利となっていった。

青師団は10月5日に開始されたソ連軍の反撃を撃退した後、ヴォロソヴォ地区へ後退し、師団は休養のはずであったが第18軍司令官リンデマン将軍はインファンテス将軍へ騎士十字章を授与し、青師団のスペインへの帰国を告げた。1943年10月29日、部隊は国境を超え祖国へと戻っていった。東部戦線で勇敢に戦ったスペイン義勇軍の損害は戦死3,934名、負傷8,466名、行方不明326名を数えた。

だが、帰国を拒む青師団の兵士も大勢いた。

彼等は1944年までドイツ軍と共に戦った後帰国した。更に約150名のスペイン兵士は武装親衛隊へと身を投じ、ベルリン攻防戦などでドイツの最後まで共に活躍したと言う。

(藤原真)

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