緑の悪魔と恐れられたエリート部隊「降下猟兵」の戦い

第一次世界大戦時、飛行機の性能は格段に進歩した。当時各国は敵の後方に飛行機によって空挺部隊を降下させて、敵を挟み撃ちすることを計画したが、実行されるには至らなかった。

第一次大戦後、各国は空挺部隊の重要性を認識して各自空挺部隊を組織した。ドイツも例にもれずに空挺部隊を組織した。ドイツの場合は空軍と陸軍と異なる運用を考えていた。空軍の場合は少数のエリート部隊が敵重要拠点に降下し、コマンダー的な戦闘を行い後続の部隊が到着するまで拠点を確保することに主眼が置かれた。

これに対して陸軍はグライダーで敵戦線後方に強行着陸し、装備と共に後に陸軍地上部隊に参加して戦うという構想であった。

ドイツ軍では空挺部隊の隊員を「降下猟兵」と称し、戦闘のスペシャリストとして一般の地上軍兵士とは異なる訓練を受けた。彼等の特徴はその特徴のあるヘルメットである。地上部隊のヘルメットのブリム部分をカットし、空気抵抗を減らした独特な形状を持つ物となったのである。

1936年10月に行われたドイツ軍秋期大演習において、ゲーリング将軍連隊第一大隊の一個小隊は見事な降下を見せ、人々にその存在をアピールした。陸軍も第22空輸師団を組織した。その後軍総司令部は、空軍と陸軍の空挺部隊の2本立てとしていくに決めた。

空軍は1938年7月に空軍総司令部はパラシュート、グライダー、輸送機部隊を一つに統合して第7航空師団を創設した。その司令官にはクルト・シュトゥデント少将が任命された。その後空挺部隊は拡張をしていったが、思うような拡張はされなかった。

降下猟兵の初陣は1940年4月9日のデンマークとノルウェー侵攻作戦における戦いであった。降下猟兵の名声を一気に高めたのは1940年5月10日のエバン・エマール要塞攻撃であっただろう。

午前4時半頃、493名の降下猟兵は42機のグライダーに乗り込み、輸送機に牽引されてケルン飛行場を離陸した。グライダーには各7~8名分乗しベルギーのエバン・エマール要塞を奇襲して、僅か1時間の戦闘で要塞を占領した。

次に降下猟兵が投入された作戦はクレタ島攻略作戦「メルクーア」であった。クレタ島を占領することはスエズを含めエジプトへの空路と海上交通を押さえることが出来たのである。動員されたのは第7航空師団と第5山岳師団であった。

作戦は5月20日早朝に500機のJu52輸送機がギリシア各地の飛行場を離陸した。イギリス軍の反撃も激しく、降下猟兵は思わぬ苦戦を強いられた。戦闘は10日にも及んだが、精強な降下猟兵はクレタ島を占領することが出来た。

だが、ドイツ空挺師団はこの作戦で被った被害は甚大であった。死者・行方不明者は3,950名、3,500名以上が負傷した。この大きな被害に最も衝撃を受けたのはヒトラー自身であった。クレタ島の作戦以降、大規模な空挺作戦は実施されることはなく、彼等は精鋭部隊として、ドイツの様々な戦線へと歩兵として投入されたのである。彼等は専用の小銃と短機関銃の機能を合わせたFG42自動小銃を装備し、その戦闘力は極めて高かった。

彼等の精強さを誇る代表的な戦闘が1944年1月から5月におけるイタリアのモンテ・カッシーノの争奪戦であろう。第1降下猟兵師団はモンテ・カシーノで、第4降下猟兵師団と訓練大隊はアンツィオで連合軍と激戦を交えていた。彼等は連合軍の攻撃を阻止し「カシーノの緑の悪魔」と言われて恐れられた。こうして第4降下猟兵師団はドイツ敗戦まで戦闘を続け、精鋭部隊として活躍したのである。

(藤原真)

photo: wikipedia