ドイツアフリカ軍団とロンメル将軍

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1940年6月にフランスがドイツに敗北した。当時枢軸国側についていたイタリアのムッソリーニは、アフリカにおいてローマ帝国の再興を目指して周辺国を占領していた。

当時、イタリアは既に北アフリカのリビア、ソマリランド、エリトリア、エチオピアに侵攻して手中に収めていた。当時北アフリカの要所である西のジブラルタル、東のスエズ運河もイギリスが押さえていた。イタリア軍は当時総勢30万人だったのに対して、イギリスのエジプト駐留軍は僅か3万5千名にすぎなかった。

イタリアはスエズ運河の奪取を目指して、1940年9月12日にエジプトのイギリス軍を攻撃した。当初イタリア軍は快進撃を続け、3ヵ月後にはシディ・バラニに到着したが、装備も劣悪なイタリア軍は立ち直ったイギリス軍に阻止され、逆にリビア領内奥に追い返されてしまった。

イタリアの敗北が迫っていた頃、1941年1月8日と9日にベルヒデスガーデンのヒトラーの山荘で開かれた軍事会議において、ヒトラーはイタリアが北アフリカを失うことを阻止する為に、軍を派遣することに決めた。

1941年2月に遠征軍の準備が完了し、遠征軍司令官にはエルウィン・ロンメル将軍が任命された。ロンメルはリビアのイタリア軍総司令官の指揮下に入り、トリポリタニア地方を防衛する任務であった。

2月12日にロンメルはリビアのトリポリに到着した。彼はすぐに飛行機で前線へ飛び、前線視察を行った。そのとき、イギリス軍はリビアとエジプトの国境から約450キロ離れたところにある、エル・アゲイラの町で停止していた。当時のイギリス第8軍の指揮官ウェーベル将軍は、消耗した軍でこれ以上進撃するつもりはなかった。

ロンメルと共に派遣されたドイツ軍は第5軽師団、第15装甲師団であり、そのうちドイツの主力戦車であるⅢ号、Ⅳ号戦車の80両が含まれていた。ロンメルはイギリス軍が弱体しているのを知るや、イギリス軍をリビアから駆逐するのには良い機会だと察すると、3月24日にロンメルはエル・アゲイラのイギリス軍前哨陣地を攻撃した。

ドイツ軍の攻撃を受けると驚いたイギリス軍は撤退を開始した。それを機会とみたロンメルは自ら第五軽師団を率いて追撃を開始した。ここに、およそ2年にわたるロンメルのアフリカでの戦いが始まったのである。当初ドイツ軍総司令部では、対露戦における準備に追われており、アフリカに物資を補給する余力がなかった。

それでもロンメルは追撃をして、4月5日にベンガジを、9日にエル・メキリを占領した。そして14日にはトブルクを包囲した。そこでロンメルは軍最高司令部へ、補給物資の輸送を依頼したが、その返答は厳しいものであった。その後ロンメルは25日にイタリア軍へトブルクを包囲させたまま、自らは第5軽師団を率いてハルファヤ峠を守備していたイギリス軍を攻撃し、それを占領した。そしてエジプトの国境の町ブク・ブクへ進撃し、そこを防衛拠点とすると、トブルクを4日に及び攻撃したが、占領することは出来なかった。陸軍最高司令部からの命令もあって、ようやくロンメルは防衛体制に切り替えるのである。

このように満足な補給もない状態ではドイツ軍に欠乏している物資のほとんどを、捕獲したイギリス軍の物資に頼るしかなかった。有名なロンメルの肖像写真を見ると、彼は英国製のゴーグルをして、英国製のチェック柄のマフラーを巻いている。更に彼は英国のドチェスター装甲車に乗り、指揮を執っていた。ドイツ軍の装備の多くはイギリスからの捕獲物資に頼っていたのである。

やがて彼の名声は母国ドイツにも伝わり、彼はドイツで英雄となった。更に1942年6月22日、至上最年少の元帥へとロンメルは昇進した。ロンメルの部隊は88ミリ高射砲を対戦車砲に使用して大きな戦果を挙げている。イギリス軍の主力戦車であるマチルダ歩兵戦車は最大装甲厚が78ミリもあり、ドイツ軍の対戦車砲では貫通ができなかった。

ロンメルはそこで88ミリ砲を使用することによって、イギリス軍は大きな損害を出したのだ。

その後、ドイツ軍への補給は幾度となく実施されたが、物量的にイギリス軍にかなう訳がない。さすがのロンメルも1942年8月のエル・アラメイン攻撃に失敗すると、それ以降ドイツ軍からは満足な作戦を執る兵力はなく、やがてドイツ軍は退却戦を展開していった。その頃ロンメルはイギリス軍から「砂漠の狐」と呼ばれて恐れられたが、イギリス軍にもロンメルのライバルと言われたモンゴメリー将軍が第8軍の新司令官に就任するや、ドイツ軍は益々困難な戦闘に参加せざるを得なくなった。その後ロンメルのアフリカ軍団はチェニジア近くまで後退していた。その後1943年1月26日にロンメルは司令官を解任された。

ロンメルは持病の肝臓病の悪化もあり、かつての「砂漠の狐」ではなかった。その後ドイツアフリカ軍集団司令官として戻ってきたが、大した活躍は出来なかった。1943年3月9日、再びロンメルは解任されて、ヒトラーにベルリンへと呼び出された。ヒトラーはロンメルのアフリカ戦線での労をねぎらい、ダイヤモンド柏葉剣付騎士鉄十字章を授与した。

その後5月13日、ドイツアフリカ軍団は降伏した。

(藤原真)