古今東西 銃火器あれこれ 「火縄銃」

今回は連載一周年記念企画! 戦国期の日本に伝来し、戦争の様式を一変させた「火縄銃」をご紹介致します。当時の日本人はこの新兵器にどれだけ驚かされたのでしょうか!?

火縄銃は大変奥が深い。ただ火薬と弾丸を詰めて発射するだけの兵器ではない。日本への伝来・運用・発展・影響どれを見ても興味深い。今回は何時もの説明文は次頁に回して、ここではイラスト図解のみを紹介したい。

※イラストをクリックで拡大します。

古今東西 銃火器あれこれ 「火縄銃」 1

火縄は最初竹の繊維を編んだものだったが水に濡れると油分が落ちて火のつきが悪くなった。その後木綿製の火縄が開発され硝石を染み込ませるなどして火持ちをよくした。

ちなみに火蓋を開くことを(火蓋を切る)という。照準を合わせることを(見当をつける)というなど火縄銃に纏わる言葉は現在でも沢山残っている。

日本人が火薬を使った兵器を目にしたのは蒙古襲来「元寇」のおり、モンゴル軍が使用した「てつはう(震天雷)」だったと考えられる。
それから250年後の1543年8月25日、一隻のジャンク船が鹿児島南端の種子島に漂着した。
ジャンク船に乗り合わせていたポルトガル人により領主「種子島時尭」は二挺の中古の火縄銃を2000両(現在価値で約二億円!)で購入した。その二挺が元となり全国に広まっていった…というのが今までの鉄砲伝来の定説だったが、しかし!!

現在では幾つかの伝来説があり、種子島伝来説のみと考えるのはいささか無理がある。大体15世紀後半から16世紀前半にかけて各地域に伝来したと考えるのが自然だろう。



古今東西 銃火器あれこれ 「火縄銃」 2
「火槍」または「槍砲」といわれるこの兵器は、金属筒に火薬や小石を詰め火縄で発砲した原始的な銃の一つだが、中国経由で伝来したと考えられる。その他にも足利将軍家や甲斐武田家にも従来の鉄砲伝来以前に鉄砲が伝わった記録がある。

伝来当初火縄銃一挺の価格が高額なうえ、火薬の原料となる硝石が日本では産出されないため輸入に頼らなければならず、大量に数を揃えるにはそれに見合った莫大な額の出費をしなければなりませんでした。
そのため初期の鉄砲の使用方法は、主に狙撃や音での威嚇に限られていました。

鉄砲伝来の経緯は、現在では諸説ありそのどれもが信憑性があります。今までの種子島伝来説だけでは、その後の大発展へ繋がることは難しいでしょう。
火縄銃のお話はとても奥が深く、一回では描ききれませんでした(汗)
ということで、次回は火縄銃の発展と運用についてご紹介致します!!
それではまた~!


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■イラストレーター紹介

ALFRED少尉(あるふれっど しょうい)
ALFRED少尉(あるふれっどしょうい)
1970年代8月、新潟生まれ。漫画・イラスト制作者。
現在カバネット株式会社:Webサイト「漫画の新聞」にて月1で2P漫画連載中。
過去の作品:ゴマブックス刊:「イケメン 戦国武将・忠義編」「イケメン戦国武将・主従編」
劇団「グーフィー&メリーゴーランド」主催舞台「JUDY~The Great Unknown Squadron~」のパンフレット内イラスト「零戦」作成&舞台の時代考証も担当。高知県の地域おこしボランティア:戦国武将「明石掃部」作成
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2011/09/30