武装親衛隊の礎を築いた「フェリクス・シュタイナーSS大将」

Felix_Steiner彼は1896年5月23日、オスト・プロイセンのエーベンローデで生まれた。第一次大戦では1914年に陸軍に志願し、士官候補生となり、ティルジッドの歩兵第41連隊に配属されるが、1914年11月に重傷を負う。

1915年戦線に復帰し、少尉になったシュタイナーは1918年まで東西各戦線に従軍し、1918年大尉に昇進した。

ドイツ敗戦後は軍を一次辞めるが、1921年に軍に再び採用され、1933年ヒトラーが政権を握ると軍を少佐の階級で辞し、ナチス党に入党した。同年突撃隊に入隊し、教育部長となり、突撃隊を第二の軍隊とするための軍事教練を書いた。

1935年、親衛隊に転じる。彼は武装親衛隊創設の1人であり、彼は兵士個々の戦闘力を高めると言う革新的な思想の持ち主だった。1936年1月7日からSS執行部隊「ドイチュランド」連隊を率いた。同年10月、バート・テルツの親衛隊の士官学校教官に就任、武装親衛隊の戦術教官を務めた。1938年にはドイチュランド連隊を率いてズテーテン地方に進出した。

第二次大戦の1939年のポーランド戦でも同連隊を率いて指揮官として参加し、翌1940年のフランス戦では優れた統率力を発揮し、8月15日には騎士鉄十字章を受章している。

1940年11月には親衛隊少将に昇進し、12月には志願兵のドイツ人と主に北欧出身の志願兵からなる「武装親衛隊ヴィーキング師団」の編成がシュタイナーに託された。

同師団は主に東部戦線南部で戦い、同師団の活躍はご存知の通りである。武装親衛隊では最強の師団の一つに数えられ、最もソ連軍に恐れられた師団であった。彼は1942年1月には親衛隊中将に昇進した。

中でもコーカサス地方における幾度も繰り返された戦闘は、東部戦線における最大の業績のひとつに数えられている。1942年12月23日にはその戦功から第159番目の柏葉付騎士十字章を受章した。

その後、1943年編成された「第三装甲軍団ゲルマン」の司令官に任命され、2月末から1943年10月末まで、東部戦線の北部地区で多大な犠牲を払いながらも戦い抜いた。その間に7月1日シュタイナーはSS大将に昇進している。10月には病気で一次戦線を離れたが、これらの戦いで志願兵たちの尊敬を一層確固たるものにした。

1944年8月ナルヴァの戦いでの戦功により第86番目の剣付騎士鉄十字章を受章した。

その後、ポンメルンの第11SS装甲軍司令官に就任した。1945年2月、ゾンネンヴェンデ作戦を指揮。3月にはベルリン北方を守る「シュタイナー軍集団」の司令官に任命され、ドイツ最後の決戦に向けて、「シュタイナー軍集団」と名づけられ、ヒトラーもシュタイナーの活躍を期待したが、「シュタイナー軍集団」そもそもが、書類上の軍隊に過ぎず、その兵力も、机上の空論上の軍団であった。

ベルリン戦では包囲されたベルリンに防御を指令されたが、兵器、兵士の数が圧倒的に不足していた為に、シュタイナーは攻撃を実施しなかった。そのため彼は1945年4月27日に軍団司令官を解任された。

ベルリン戦では歩兵10万のドイツ軍に対し、ソ連軍はその倍以上、戦車は4倍。航空機、砲兵も圧倒していた。ドイツ軍は消耗した兵器、兵士の補充がほぼ不可能なほどだった。

彼は5月3日ドイツのエルベ川でアメリカ軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判では戦争犯罪人として裁かれたが、1948年に釈放されている。

戦後は「嫌われ者の軍隊」「義勇兵」などの小説を書いている。

彼は1966年ミュンヘンで死亡した。

なおアメリカの陸軍士官学校には彼の肖像画が飾られていると言う。

(藤原真)

photo: wikipedia