ロンメル共にアフリカで戦った「ケッセルリンク・アルベルト大将」

Albert_Kesselring彼はバイエルン王国のウンターフランケンのマルクトシュに1881年11月30日に生まれた。バイロイトの学校を卒業後、1904年にプロイセン王国陸軍に入隊した。

ケッセルリンクは翌年第二徒歩砲兵連隊に転属し、着弾観測兵としての教育を受ける。1906年少尉に昇進。第一次大戦は砲兵士官として、大尉に昇進し、軍団将校などの参謀将校として従軍している。

戦後「ベルサイユ条約」の制限を受けて10万に制限されたワイマール共和国に残され、彼はそこでバイエルン軍の復員業務に従事した。中隊長を経た後、1922年に国防省統帥部に勤務、1931年から1933年にかけて第4砲兵連隊、第Ⅶ軍幹部司令部に勤務。

1933年大佐に昇進し、ドイツ空軍創設に従事する。1934年4月には少将として正式に空軍に移籍した。対一次大戦時にゲーリングと知己だったことが彼の昇進を早めたとも言われている。また、管理責任者となるために48歳の歳でパイロット免許を取得している。

1936年には中将に昇進。同年空軍参謀総長に昇進し、1937年には大将に昇進、

第三航空管区司令官、翌年第一航空集団司令官に就任している。

1938年空軍司令官のヴァルター・ウェーバー将軍が墜落事故で事故死すると、その後任となる。

第二次大戦の緒戦は1939年に第一航空軍率いてポーランドに進出。ポーランドが敗北すると、その戦功により騎士鉄十字章を受章した。

1940年には第二航空軍を率いてベネルクス3国とフランス戦に参加。同年元帥に昇格した。

1941年6月の独ソ戦に参加。第二航空軍と共に東部方面に異動。更に12月には地中海、イタリア方面へ向かい、同地域の全空軍部隊を指揮した。

地中海では、古典的な戦術の連合軍を翻弄した。また、マルタ島爆撃では敵に壊滅的被害を与えた。彼の指揮する空軍が当時、地中海の連合軍の動きを抑え、アフリカ軍団の進軍を支えた。それらの戦功により1942年には、柏葉付騎士鉄十字章、剣付騎士鉄十字章を受章した。

連合軍の反撃ではエルヴィン・ロンメル将軍と共に北アフリカ戦線の作戦を指揮していたていた。チェニジアから同盟軍の撤退作戦も支援している。

アフリカ軍団が降伏すると、1944年のイタリア戦線では地上部隊の指揮を任され、連合国の進撃を遅らせることに成功している。

その戦功として、彼はダイヤモンド剣付柏葉騎士鉄十字章を受章している。

また、ローマに連合国の爆撃が増えると、彼はローマ教皇ピウス12世の呼びかけに応じ、ローマを無防備都市として、ローマの古代遺跡群を爆撃から救っている。

1944年10月、アペニン戦線を視察中にボローニャ付近で、砲の横を車で横切る際に頭部を砲身に強打し、24時間意識不明となった。症状は頭蓋骨骨折の重傷であった。

1945年3月、ドイツ軍最後の攻撃であったバルジ大作戦において、アルデンヌ攻略に失敗した解任されたゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の後任として、軍に復帰し、西方総軍司令官に就任したが、圧倒的な連合軍の物量と攻撃により、ドイツ軍は敗走を続けていた。

ケッセルリンクは秘密裏でアメリカ軍諜報員アレン・ダレスと和平交渉をしたが、時既に遅く、交渉は失敗した。

ドイツが1945年敗戦後、彼はアメリカ軍に5月4日に投降した。

ヴェネツアにおける戦後の裁判では死刑を宣告されたが、後に終身刑に減刑され、1952年には釈放されている。

その後、シュターヘルムの退役軍人会の会長に選ばれたが、1960年7月16日に心臓発作で死去している。

(藤原真)

photo: wikipedia