ナチスの最古参の1人「ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング元帥」

Hermann_Göring彼は1863年1月12日にバイエルン州ローゼンハイムに生まれた。父は外交官であり、ハイチの総領事に任命され、ハイチにいる頃にゲーリングは生まれた。彼の父は再婚でゲーリングが生まれたが、前妻の子とあわせると、最終的に10名もの兄弟がいた。彼はその中の9番目の子どもに当たる。

早くから軍人に憧れていたゲーリングは貴族的な裕福な生活を少年時代に送っており、1904年にアンスバッハの寄宿制のギムナジウムに入学したが優雅な生活を送ってきたゲーリングにはなじめず、1年で自宅に戻ってしまった。

1905年からバーデン大公国の士官学校に入学した。彼はそこで優秀な成績を収めて卒業した。1909年からプロイセン王国高級士官学校に入学し、1914年に卒業した。

1914年1月に、第112「プリンツ・ヴェヘルム」歩兵連隊に少尉として配属された。大一次大戦では西部戦線に配属される。ミュールハウゼンでの戦闘では4名のフランス兵の捕虜にする戦功で、2級鉄十字章を受章している。その後リューマチ熱に罹り病気により更迭される。

入院中に彼と同じ連隊の者が、フライブルグ飛行訓練に通っていたのを見て、ゲーリングも飛行隊に憧れを抱く様になった。1915年9月からブライブルクでパイロットの訓練を受け、原隊への復帰命令が出ても、彼は戻らなかった。軍法会議で有罪となり、21日間の禁固刑を命じられるが、それが実行されることはなかった。

1915年に彼は空軍第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットに異動になった。その裏には、有力なヘルマン家の裏での工作があったといわれている。

彼は技量、戦意とも認められて「鉄人のヘルマン」と呼ばれるようになった。彼は1917年10月に、プロイセン王国のホーエンツォレルン王家勲章剣付騎士十字章とバーデン大公国から、カール・フリードリヒ軍事勲章騎士十字章を受章した。

更に1918年、6月2日には18機撃墜による功績として、ドイツ軍最高の「プール・ル・メリート勲章」を受章した。

1918年7月7日には「リヒトフォーフェン大隊」で名高い第1戦闘機大隊の指揮官に任じられた。これはドイツ戦闘機部隊の中でも名誉ある部隊だった。

第一次大戦でドイツが敗戦すると、彼はミュンヘンへ戻った。だが当時のミュンヘンは左翼と右翼がぶつかり、更に共産党員は迫害されていた。

ゲーリングはその後、フォッカーから展示会での飛行依頼が来た。彼の飛行は評判となり、曲芸飛行士として、デンマークやスウェーデンなどでも曲芸飛行を行った。1922年11月、ミュンヘンの政治集会でゲーリングは初めてヒトラーと出会った。

1922年12月ミュンヘンでナチス党に入党し、SAの指揮官に任命された。しかし、1933年のミュンヘン一揆に失敗後は海外に逃亡し、ヒトラーが政権を承諾後にドイツにも戻り、首領閣僚となる。

以後、航空担当国家安全委員、経済4カ月実行委員長、空軍総司令官を兼任した。

第二次大戦が始まると、対フランス戦の勝利から、国家元帥の地位が与えられ、翌年には公式にヒトラーの後継者に任命される。

しかし、対英戦の失敗、独ソ戦における補給の失敗などで、しだいにその面目を失っていった。ゲーリングはしだいに趣味の美術品収集に興味を持つようになる。

面白い話がある。ゲーリングには影武者がいたという噂である。彼は普段から化粧をしていたり、香水を付けていた。そこで彼にそっくりな姉が彼の影武者とされていたが、定かではない。

1945年になって、ヒトラーが総統官邸に篭るようになると、ゲーリングは権力の移譲を要求した。これに激怒したヒトラーは、逆にゲーリングの全ての地位を剥奪した。更に親衛隊によって逮捕された。

1945年10月15日、ドイツ敗戦後ニュルンベルク裁判で死刑を宣告後、彼は収容先の独房で隠していた青酸カリで自殺を遂げた。

(藤原真)

photo: wikipedia