髑髏師団の名将「テオドールアイケSS大将」

Theodor_Eicke彼は1892年にアルザス地方のロートリンゲンに生まれた。小学校を卒業後、実科学校へ入学するが、17歳で中退している。
1909年に、彼はバイエルン王国軍第23連隊に入隊し、主に大戦中は砲兵連隊の主計官の任務に就いた。大戦中彼は2級鉄十字章を受章している。
戦後イルメナウ工科大学に入学するが、学費不足で中退。その後、警察の密偵を努める。その後警察官を志、警察学校に入学したが、性格が粗暴であるとして判断されて2週間で追放処分となっている。
そして彼は公安を害する者として、ヴュブルツの精神病院に精神異常者として収容された。
それを救ったのがSS長官のハインリヒ・ヒムラーだった。彼はアイケを1933年6月に精神病院から退院させるとSS准将に任命し、ダッハウにあった強制収容所の所長を命じた。
ヒムラーには残忍で冷酷なアイケが適任とされたのだ。ここで彼は強制収容所の運営に貢献し、34年の「長いナイフの夜」事件ではSA参謀長のエンレスト・レームを自ら射殺した。
アイケの収容所の運営に満足していたヒムラーは、アイケを収容所の警備部隊隊長に任命し、収容所看守たちを中心に警備部隊として「どくろ部隊」を作った。1939年には武装親衛隊に昇進して師団長となる。
その後髑髏師団は拡大していき、後には一般の兵士で補充された。
彼の大きな戦功は1942年2月から開始された包囲戦である。デミヤンスク前面でドイツ軍は挫折し、この時、第12、第30、第32、第123、第290歩兵師団、第3SS装甲師団トーテンコプフ約10万の将兵がソ連軍に包囲された。
ドイツ軍は頑強に抵抗し、ソ連軍の包囲網も弱くなった。その間ドイツ軍は1日に250トンの物資を必要としていたが、ゲーリングは物資の空輸をして、戦線を持ちこたえ、これが後にスターリング・ラードの悲劇を生むことになる。
4月21日、ドイツ軍は退却を初め、大きな犠牲を払いながらも退却に成功した。
アイケはこの包囲戦で大きな戦功を立て柏葉騎士十字章を受章し、その際彼は1942年4月20日に武装SS大将に出世したが、髑髏師団の兵士の8割が戦死した。そのため師団はフランスへ送られて再編成に入った。彼は冷淡な性格ではあったが、部下からは慕われていたと言う。
1943年2月初め東部戦線に復帰したが、オリヨールを視察途中に搭乗していたFi156を撃墜され戦死した。
(藤原真)

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