ヒトラーの総統地下壕での最後の日々

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1945年1月、ヒトラーは東プロイセンにあった「狼の巣」と呼ばれた総統大本営を引き払ってベルリンの総統官邸に戻った。2月になるとベルリンは激しい空襲に襲われる様になり、ヒトラー一行は官邸の地下壕に閉じこもった。

この地下壕は建設大臣であったアルベルト・シュペーアの設計によるもので、地下16メートルに作られていた。官邸から地下壕へと降りる階段は鋼鉄製の二重ドアによって仕切られており、天井は厚さ2.8m、壁は2.2mものコンクリートで作られていた。

ヒトラーは1944年にシュペーアに地下壕を総統官邸の地下に作ることを命じたという。急な工事で作られた地下壕はコンクリートが剥き出しで、中には照明灯が灯されていた。地下壕にはろ過装置の付いた空気調整器の異常な金属音が響いていた。

総統官邸から地下壕へ行くには、総統官邸の食料室奥に設けられた退避口から短い階段を伝って降りることが出来た。階段から下に突き当たるまでの狭い通路は彼等に「カンネンベルク小路」と呼ばれていた。その名は官邸の食料管理長のアルトゥール・カンネンベルクにちなんでいた。地下壕の中に入るには東と北に設けられた2つの耐ガス隔壁の二重ドアを抜けねばならず、更にその内側には第二の隔壁が備えられていた。訪問者はここで衛兵のチェックを受けて、ようやく地下壕内部へ入ることが出来たのである。

地下壕は大きく分けて2つのブロックから成っていた。一つ目のブロックにはゲッベルスとその家族、更には使用人たちの部屋があった。また、機械室や食用庫など12室が配置されていた。中央道路を進み、奥の階段を降りると第2ブロックへ行くことが出来た。ここにはヒトラーの執務室や会議室、エヴァ・ブラウンの寝室など18室があった。そこは中央道路で仕切られており、入り口に近い所に党幹部や職員の居間などがあった。その反対側には会議室を兼ねた廊下があり、この廊下からヒトラーの私室へと通じていた。その通路の突き当りからは非常用の為の階段があり、官邸の庭園に出ることが出来た。

総統官邸にはヒトラーの地下壕の他に、マルティン・ボルマン等党幹部の防空壕、総統地下壕を護衛する衛兵の為の防空壕、ゲッベルスと彼の幕僚たちの防空壕があり、彼等はそこからヒトラーの地下壕まで通い、毎日会議を開いていたという。

ヒトラーの執務室はと言うと、廊下には赤い絨毯を敷かせ、部屋の中には簡素な机と椅子、その壁にはヒトラーが尊敬してやまないフリードリヒ大王の肖像画が掛けられていた。

更に寝室、居間が二つあり、浴槽があった。地下壕最下層にはヒトラーの愛犬である牝シェパードの「ブロンディ」と子犬4匹が飼われていた。

地下壕全体には官房地下室のSSを含めると600から700名が住んでいた。またヒトラーは菜食主義者であり、料理もヒトラーに合わせて調理されていた。喫煙も禁止されており、喫煙者にとっては苦痛であったという。

地下壕と外部は電話機と無線機によってかろうじて繋がっており、情報はラジオを通じて、しかも連合軍側の報じるラジオ・ニュースが的確な情報であったという。ドイツ軍側の情報はドイツ軍敗走や、ベルリンへ迫る連合軍の進撃報告ばかりだった。

ある日ヒトラーは、最精鋭の武装第1SSアドルフヒトラー師団のふがいない戦いに憤慨し、師団へ全兵のアームバンド(腕章)の剥奪を命じた。ヒトラーの名を冠する師団ゆえにヒトラーの怒りは収まらなかった。だが、そこに送られてきたのは「腕章のついた兵士の傷ついた片腕」が送られてきたという。

地下壕に数ヶ月篭っていたヒトラーの顔は顔面が蒼白で、過労や神経衰弱などによってやつれ果てていた。彼の心を正常につなぎとめていたのは、強い精神安定剤だけだった。

ヒトラーのだらりとした左腕は常にふるえ、首がぐらぐらとしており、まるで老人の様だったという。だが、ヒトラーの瞳だけは、爛々と不気味な輝きを放っていたという。ゲルハルト・ボルト著の「ヒトラー最後の10間」にはヒトラーの生々しい人間像が描かれている。

4月20日、地下壕でヒトラーの誕生祝賀会が開かれた。その際、参加者達はヒトラーにバイエルンへ移る事を進言したが、ヒトラーは頑なにそれを拒否した。ベルリンへ150両を越すソ連軍の戦車が迫っていてもヒトラーは地下壕を離れることはなかった。

4月21日、ヒムラーとその司令部、外務省は北へと避難をした。またゲーリングと空軍総司令部は南へと非難をしていった。やがて総統地下壕へもソ連軍の砲弾が響くようになっていった。やがてソ連軍の重榴弾が官邸に着弾するようになると、15分ほど換気を止める必要があった。そうしないと外気の硫黄や煙、石灰の埃などを地下壕内部に吸い込んでしまうのであった。

4月22日の戦況会議ではベルリンの包囲が時間の問題と成った。ヒトラーは自らの命令に従わない軍部への命令途中で、ヒトラーは椅子から飛び上がり、叫び、喚いた。顔は蒼白と朱色を往来し、全身がわなわなと震えている。うわずった声で、不実、卑怯、裏切り、不服従と口走った。更に国防軍と武装親衛隊への非難が続いた。

彼は徐如に椅子に身体をうずめて、ヒトラーは子どものように泣き崩れた。そして「終わった・・・戦いは負けた・・・余は自決する・・・」と呟いた。その場の人々の無言状態は5分間も続いた。やがて、ヨードル将軍が最初に口を開いた。ヒトラーの国民と国防軍に対する義務を説いた。やがてヒトラーも自制心を取り戻した。

なお、ヒトラーはゲッベルスを招き、ベルリン市民へのアピールの作成を命じた。ヒトラーはベルリンにあって、自ら指揮をとり最後までベルリン市民と運命を分かつと述べることになっていた。その後、ヒトラーの幹部達は地方に向けて非難をして、そこからヒトラーを救出する作戦を実行しようとした。

だが、周囲をソ連軍に包囲されていた彼等は、実際何も出来なかった。命からがら落ち延びたというのが彼等の現状だった。末期の方になると、地下壕にいたヒトラー護衛の武装SSのコマンド兵たちは朝から酒を煽り、迫り来る死の恐怖と戦っていたという。

こうしてヒトラーは4月30日午後3時半頃、愛犬を殺処分した後ヒトラーとエヴァは自殺をした。ゲッベルス一家もその後自殺し、ここにナチスドイツは永遠の終焉を見たのである。

(藤原真)