ドイツ軍が体験した地獄の戦場「ファレーズの地獄」

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1944年6月6日、英米両軍はフランスのノルマンディに上陸した。これは俗に「オーバーロード作戦」と呼ばれる物で、東部戦線での戦闘で弱体化したドイツ軍に第二戦線を構築して、最後の致命的打撃を与える手段として実施されたのであった。

ドイツ軍側の守備兵力が完全ではなく裏をかかれた事もあり、上陸した連合軍兵力は第一波攻撃だけで将兵17万6千人、艦艇5千300隻、航空機1万4千機という大規模なものであった。また、初日だけで1万1千機の連合軍機が出撃したが、ドイツ空軍に1機も撃墜されることはなかった。

こうして、7月2日までに上陸した連合国兵力は約100万人に達し、陸揚げした物資は57万トン、様々な車両類は17万台にも達した。この作戦が成功したのも連合軍が制空権を握っていたことが大きい。ドイツ空軍はその頃には既に弱体化しており、満足な防空戦を行う能力すら無かったのである。

それでも、ドイツ軍の地上部隊は粘り強く戦い、連合国は想像以上の兵力を消耗した。

7月19日にはサン・ローがアメリカ軍に占領された。更にドイツ軍の防衛線を破るために7月25日に実施された「コブラ作戦」では2千機からなる爆撃機隊がドイツ軍へ絨毯爆撃を実施した。そこにはアフリカ・東部戦線を経験した強者バイエルライン中将が指揮する、ドイツ軍装甲師団の中でも強力な第130戦車教導師団がおり、その戦力だけで連合軍を海へ追いやることが出来るとも言われていた。更に第13、第14降下猟兵連隊からなるハインツ戦隊の陣地には殺人的な爆撃が実施され、地面は辺り一面が耕されてクレーターの様になった。ドイツ軍はこれら空からの爆撃には無力であり、戦場にはドイツ軍兵士の屍で溢れた。そして戦車教導師団は壊滅状態となった。その戦を体験したバイエルライン将軍の言葉は次の様だった。

「少なくとも師団の半数以上の戦闘力が奪われた。兵士は皆、死んだか負傷して埋もれたか、発狂した」

その後パットン将軍率いる連合軍は、要所であったアブランシュを占領した。これに対してドイツ軍はアブランシュの奪還を目指して反撃に出た。これが「リュティヒ作戦」と呼ばれる作戦で、第47装甲軍団長フォン・フランク将軍の下、第2、第116、第1SS、第2SSの各師団と戦車教導師団の生き残りが参加した。

当時のドイツ軍は完全に制空権を奪われており、戦車には偽装の為に、木の枝や葉、ネット類で偽装され、航空機から完全に身を隠す必要があった。戦車を見つけ次第、連合国のタイフーン攻撃機が飛来しては完全に破壊されてしまうのだ。

だが、その戦力は戦車の合計は僅か180両程度であった。作戦は8月6日深夜に開始された。予想に反し作戦序盤は成功したが、やがて夜が明けると大量の連合軍爆撃機がドイツ軍の上空に飛来した。ドイツ軍は連合軍の激しい爆撃を受けて作戦は頓挫した。ドイツ空軍も千機ほど参加したが、前線に辿りつく前に撃墜されてしまったという。戦闘は約6日間続いたが、この一連の戦いでドイツ軍は戦車を150両以上破壊され、兵力を西側に集中しすぎた為に、後に重大な結果を招いてしまった。

同じく東のカーンの南ではイギリス、カナダ軍による「トータライズ作戦」が実施された。2千機の爆撃機と600両の戦車が参加した作戦はドイツ軍の反撃で失敗した。これに気を良くしたドイツ軍上層部がもたついている間に、8月10日アメリカ第15軍団がアルジャンタンへ到達した。そしてイギリス、カナダ軍レゾン川まで下がってきており、ここにドイツ軍第7軍、第5装甲軍将兵が大きな袋に閉じ込められてしまった。

8月17日アメリカ軍を初め連合軍は包囲網を閉じようとしていた。そこは18日には包囲網は幅12km、深さ9kmまで閉ざされた。そこには第7軍下の第84、第226、第227、第326、第353、第363の各歩兵師団。第2、第116、第3降下猟兵師団、第1SS、第10SS、第12SS装甲師団の10万余りのドイツ軍が残されていた。

彼等は連合軍の爆撃と重砲火の地獄の中、各自西側背後に流れるドゥーブ川まで退き、西側友軍部隊へ向けて脱出を試みた。この狭い包囲網の隙間に対し、連合軍は空と地から猛攻を加えた。タイフーン10個中隊(約240~250機)はロケット弾の一斉射撃を浴びせた。

約6日間の脱出行でのドイツ軍の損害は10万の将兵の内、脱出が出来たのは僅か半分ほどで、1万人が戦死して4万人が捕虜となったのである。しかも脱出に成功した将兵もほとんどの装備を失っていた。この一連包囲戦を称して「ファレーズの地獄」と呼ばれた。戦場をその後視察した連合軍総司令官のアイゼンハワーは、「ダンテの地獄編」のような凄惨な現場に絶句したと言われている。

この脱出劇でドイツ軍B軍集団は消耗し、西方軍司令官フォン・クルーゲ元帥は自決した。一連のドイツ軍の敗北は更に加速されることになり、パリへの道が開かれたのである。

(藤原真)