独ソ戦の天王山「スターリングラード攻防戦」

スターリングラードとは、そもそもドイツ軍の夏季攻勢「ブラウ作戦」上の作戦途中の地名であり、当初戦略意味を持つとは思われていなかった。当初はカフカース地方の油田地帯の占領を目標としていたのだが、ヒトラーはスターリンの名を冠したこの街の占領に躍起になったと言われている。

6月28日、フェードア・フォン・ボック元帥指揮の南方軍集団は中央軍集団から戦力を引き抜いて大攻勢「ブラウ作戦」を開始した。100万の兵力はドン川を渡りカフカース地方の油田地帯を攻めるA集団と、その側面を進み、スターリングラードでヴォルガ川を封鎖するB集団に分けられて進軍した。なお、B集団はマクシミリアン・フォン・ヴァイクス大将指揮の下、第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア、ハンガリー、ルーマニアの30万兵によって行われた。

当初は計画通りに進んだA集団ではあったが、前面に立ちはだかるカフカース山脈、更にカスピ海、黒会などから増援を受けたソ連軍の猛反撃を受けた。更に9月に入るとグロズヌイから70キロ前面のテレク川で戦線は完全に膠着した。9月9日にヒトラーはA軍集団司令官のリスト元帥を罷免し、後任のクライスト上級大将に充てられたのは11月22日であった。このようにドイツ軍内でのごたごたもあり、A軍集団の当初の作戦は完全に失敗してしまった。

そこで、B軍集団のヴォルガ川遮断にヒトラーの目的は移っていったのである。ソ連軍はブリャンスク方面のヴォロネジ市街地に拠点を構えて強力な抵抗をした。ドイツ軍は2個装甲師団を投入してこれを占領したのは7月13日だった。更にドン川下流の制圧まで7月下旬までかかってしまった。ヒトラーは7月15日に司令官のボック元帥を更迭し、軍集団司令部をB軍集団司令官ヴァイクスのもとに統合した。

8月16日までにドイツ軍はドン川西側西岸を全て確保し、スターリングラードへの道は開かれた。当時人口が60万のスターリングラードにはトラクター工場や兵器工場が多数存在していた。8月23日、ドイツ軍による攻撃が突然開始された。

フォン・リヒトフォーヘン上級大将の第4航空大隊は2,000機の爆撃機で1,000トンもの爆弾による猛爆撃を加えた。地上軍では第6軍と第4装甲軍による攻撃が加えられたが、第4装甲軍の一部がA軍集団の側面支援で3週間送れた為に、その間スターリングラードには猛爆撃が加えられ、多くの建物が廃墟へと変貌していった。

この廃墟へドイツ軍は突撃した。だが、地の利を得たソ連軍は地下の排水溝等を利用して陣地を構築し、ドイツ軍を苦しめたのである。更にドイツ軍は決定的なミスを犯してしまった。市街戦へ装甲部隊を投入してしまったのである。元来、装甲部隊は広大な地域での戦闘に適しており、このような市街戦では兵士をただ消耗するだけであった。

10月に入るとドイツ軍は市街地の8割を占領した。だが、それは1メートルごとに数名のドイツ兵が命を落としたことになり、そこでは7秒に1人のドイツ兵が命を落としたと言われている。そこでは地獄絵図が展開していたのだ。

やがて戦線は膠着し、11月に入ると逆にソ連軍がジューコフ将軍をスターリングラード方面司令官に任命し、反抗の準備を進めていた。

スターリングラードの第6軍の北方と南方で第六軍の側面防衛に当たっていたのはルーマニア軍であった。彼等の装備はドイツ軍に劣り士気も低かった。やがてソ連軍は第6軍を逆包囲しようという動きにでた。ドイツB軍集団もソ連軍の意図を見抜き、コーカサスで戦っていたマンシュタイン将軍をドン軍集団司令官に任命し、スターリングラード戦線の指揮を執らせた。彼はソ連軍の規模から言って、第6軍の後方を安全にするべき進言したが、11月19日にソ連軍は北と南で大攻勢を開始し、同時にルーマニア軍を包囲殲滅してしまった。更にソ連軍は南北から第6軍の後方深く侵入し、カラーチで第6軍を包囲しようとした。

そのとき、パウルス将軍はB軍集団司令部に次のような報告を送っている。

「燃料も残り少なく、戦車と重火器は行動不能。弾薬も欠乏す。食料は残り6日分。第6軍はドン河両側を確保する決意でおり、全ての準備は完了せり。」

スターリングラードを放棄、撤退するならこのときであった。しかし、ヒトラーは「スターリングラードに留まり、おって命令を待つべし」と返事をした。

11月23日にソ連軍はカラーチの包囲の輪を閉じてしまった。同じ日にパウルスはスターリングラードを突破後退する許可をB軍集団に求めた。同時にパウルスはヒトラーにも同様の電報を送ったが、ヒトラーは撤退を拒絶した。第6軍に航空機で物資の輸送をするという、空軍のゲーリングの言葉を信じていたのだった。その代わりに南からドン軍集団にソ連軍を攻撃させて押し返す案を考えたのである。

第6軍司令部は脱出の予定日を25日に決めていた。マンシュタインの判断では、包囲を破って脱出できる見込みは10%しかなく、3人に1人が戦死するだろうと悲観的であった。24日の会議では幕僚や軍団長全員が撤退すべきだとパウルスに迫った。しかしパウルスはヒトラーの命令に服従したのである。

20万から22万のドイツ軍将兵がスターリングラードに閉じ込められて越冬することとなった。多くの兵士は夏季装備のまま、ロシアの猛烈な寒波と戦わねばならなかった。更に彼等の食料も底をつき、飢餓状態が始まっていた。

マンシュタインによる最後の救出作戦は12月12日に始まった。マンシュタインは南方から第6軍を包囲しているソ連軍を破り、ヒトラーの命令を無視して第6軍を撤退させるつもりでいた。

最初の2日間、作戦は順調に進んだが、ソ連軍は次々と大軍を戦場に投入した。マンシュタインは敵がドン軍集団の後方のロストフを攻撃する前兆だと判断するや、計画は頓挫した。

包囲下にある第六軍からドン軍集団に送られてくる報告は日々に切迫していた。「全ての部隊はいかなる種類の遮蔽物もなく夜天で雪の中に寝ている。気温は摂氏零下35度」

「有効な指揮は不可能。1万8千の負傷兵には包帯と薬品の補給はなし」

1月24日パウルスはヒトラーに降伏の許可を求めた。その後、ヒトラーはパウルスに元帥の称号を送った。過去にドイツの元帥が敵に降伏した例はなく、ヒトラーはパウルスに自決を迫ったのである。パウルスは2月2日にソ連軍に降伏を求め、残存兵9万1千名がソ連軍の捕虜となったが、ドイツに戻れた兵士はわずか5千名にすぎなかった。

(藤原真)